アディクションの語源

アディクションの語源

Addictionは英語圏の言葉だが、ラテン語のaddictus(割り当てる、ゆだねるの意のaddicereの過去分詞)に発している。ここで「ゆだねられた」とは、「とり憑かれた」つまりobssesedのことである。「憑かれた」ないし「取り憑かれ(obsession)」は医学的には強迫観念と訳されているが、そこには「ある考えにはまって抜けられない」ことが含意されている。

フランス語圏では英語の addiction にあたる言葉がなく、その代りに古典的フランス精神医学では各種のmonomanie(単一偏執狂)が細かく論じられた。drug addictionはtoxicomanie と呼ばれるが、これはトキシン(毒)に関するマニー(狂気)という意味である。これから派生して現代の一般フランス語では「○○が癖になった」ということを「○○がクスリのように(une sorte de drogue)なった」とか「○○に薬中(accro)してる」とか表現する。これらはいずれも日本語の○○中毒という言い方に近い。

ドイツ語圏には Suft(ズフト)という言葉があるが、これは元来、疾患という意味で、Gelbsucht(黄色い病気)というと黄疸のことである。だからTrunksucht というと「飲む病気」ということだが、これは飲酒嗜癖のことである。つまり「○○嗜癖」はみなズフトになるから、ごく日常の生活全般に使われている。

そういうわけで日本語の「○○中毒」も悪くはない。しかし「中毒している」と動詞のように使う場合(この場合、くだけた、ふざけた感覚を伴う)はともかく、「中毒」なる名詞で使われると、漢字表記というものの特性もあって「毒に中(あ)たる」という「毒」の部分が過度に強調されてしまう。どうせくだけるのならいっそ「はまって抜けられない」ことを強調したハマリズムではどうか。この言葉は、以前から私用していたものだが、ある座談会(『現代のエスプリ』434号)で他人に披露してみた際に、意外に使い勝手が良いし、理解も得られやすいことに気づいたので、以前(2005年)の本誌で提案したことがある。窃盗ハマリ、パチンコハマリ、過食ハマリ、世話焼きハマリなどと表記すれば、誤解することの方が困難である。

 

アディクションと自体愛

「アディクションとセックス」について語るとなれば、まず幼児のおしゃぶりに関するフロイト(Freud, S.)の見解から始めなければならない。彼は乳幼児の「おしゃぶり」を性的自慰(自体愛)と見なした(1905 年の「性欲論3[2]小児の性愛」『フロイト著作集5』, 人文書院)。おしゃぶりはまた原初の嗜癖行動(アディクション)でもある(斎藤学「嗜癖の起源、およびその暴力との関係」アルコール依存とアディクション, 42; 99−108, 1994)ので、アディクションは性表現の一型である。

人は性別、年齢によってさまざまな形のアディクションを対象愛からの「すり替え充足」として選ぶ。「すり替え充足」とは真の欲求や渇望を、あり合わせのもので間に合わすことを言う。マウスを使ったオペラント条件づけの際にペレット(餌玉)を諦めた動物が、自由に飲める水を過剰に摂取して水中毒を起こすような場合を指している(斎藤学「嗜癖」土居健郎, ほか編『異常心理学講座 第5巻』, みすず書房, 1987)。

具体的に言えば、アルコール・カフェイン等の薬物摂取、ギャンブル、ショッピング、セックス、スポーツ、性交、過食嘔吐サイクル、拒食、窃盗、性倒錯、喫煙、カフェイン過摂取などで、当然ながら性器を使う自慰も「すり替え充足行動」である。また、恋愛や共依存と呼ばれる陶酔的人間関係もこれに含まれる。

これらには、非合法薬物摂取やギャンブル癖のように男性に偏って多い(男性が女性の10〜20倍)ものもあれば、過食嘔吐サイクルやショッピングなどのように女性に偏る(女性が男性の10倍前後)ものもある。

これらは乳幼児が実行できることではないが、身体と心を自由に使えるようになるや否や人は、その自由の度合いに応じて、熱心にこれらに耽る。この種の行動が悲惨な状態を招くのは、「すり換えられた行動」が決して真の充足をもたらさないからである。おしゃぶりも性自慰も、個体にとっての真の充足をもたらさないから、いつまでも続く。それに対して食欲なり、性欲なりが食欲や異性とのセックスなどでしっかりと満たされた際には、個体は眠りに落ちる(primal sleepあるいはgoleden slumber)か、次の標的行動へとスムーズに移行する。

「すり替え充足」を頻回に繰り返すのは、他者からの承認や拍手を渇望している寂しい人々なのだが、ここでは彼ら彼女らのパーソナリティの詳細に言及するゆとりがない。本特集中の著者の論考が辛うじてこれに触れているので参照していただきたい。

 

おしゃれも性行為である

「すり替え充足」という概念を用いると日常生活の細部にもさまざまな性的表現が隠されていることが見えてくる。ヒトという「パンツをはいた動物」は性器や性行動を隠蔽することによって性欲動を昂進し、交尾の機会を増し、ついには常時発情によって発情期を消滅させるに至るという交尾最優先の種族である。「家族」はそうした発情者たちの交尾欲求に即して作られたものであるはずだが、われわれが目にし、体験してきた家族では(夫婦の対を除けば)交尾の兆候も誘惑も見られない。その夫婦対にしても、性交のために設けられた制度にもかかわらず、性交中の彼らの営みは子どもたちに隠蔽され、目撃した子どもたちもそうした両親の姿を忘れようと努める。

こうした交尾に関する静粛と沈黙の片面で、子どもたちは親たちが「性的な(性交している)」存在であることを示すメタファー(暗喩)を当たり前のこととして受容している。例えば母親の口紅や衣装、父親に比べてハイトーンな声などがそれである。男性器は外部に露出していてわかりやすいので性器統裁が進みやすい。その点、女性の方が曖昧で、性感の性器局在から免れやすい。それによって性感覚は身体全般に広がり、男性の場合より象徴化され暗喩化され洗練されている。その結果、女性の身体に関わるもの、例えば身を飾ること(体形を整える、衣装を選ぶ、化粧・髪型を工夫する、など)やその道具にはすべて性的メタファーが関与することになる。口紅を初めとする化粧品やコスチュームの工夫などは、それ自体がある種の性行為である。このように考えることによって女性に圧倒的に多いショッピング(買い物)・アディクションの説明がつく。要するに筆者は性的自慰とショッピング・アディクションとの間に明確な差異を設けなければならないとは思わない。

このような考え方を奇異と感じる人々も多そうだが、筆者自身は一貫してこのような視点のもとに過食や盗癖に接し、それなりの成果を上げてきたと思っている。他日、このことに関してもう少しまとまった記述をしてみたいものだ。

初出:「アディクションと家族」特集にあたってより(第31巻2号,2016)