映画『モンタナの風』について
少し前に『モンタナの風』という映画を観てもらったが、この映画について『子別れレッスン』(久田恵共著、学陽書房、1999年)に書いたものをそのまま引用する。
「馬にささやく人」
遅ればせながら「モンタナの風に抱かれて(原題:ホース・ウィスパラー)」を観た。13歳になる乗馬好きのニューヨークの少女が、雪の日に親友の少女と遠乗りに出掛けてスリップしたトラックに巻き込まれ、親友は死に、自分は右脚を失う。迫ってくるトラックに両前足で立ち向かった馬も顔面と腹部に無残な傷を負って生き残る。生き残ったものの暗闇に立ちすくみ人を見ると荒れ狂う、醜悪な暴れ馬になる。義足をつけた少女は、学校へも通えなくなり、部屋の暗がりに座り込み「馬を殺してあげて、そして私も殺して」と言うようになる。少女の両親は忙しい人たちである。母親は大きな雑誌の編集長で分秒きざみで人に会い、決断し、部下に指示を出している。有能で勇敢な女性だが、子どもにとって「良い母」ではない。しかしこの一人娘の危機に際して、彼女の母としての全能力が開花する。まず獣医や厩舎の人々の「馬がかわいそう、殺そう」という助言を聞かない。馬の心の傷を癒す方法をインターネットで探し求め、「ホース・ウィスパラー〈馬にささやく人〉」と呼ばれるカウボーイのいることを知る。携帯電話に頼って編集長としての仕事を続けながら、暴れ馬をトレーラーに乗せ、反抗する義足の娘を車に押し込んでモンタナまでドライブする。
母親はカウボーイに「調教はいつ終わるの?」と聞き、カウボーイは「馬次第さ」と答える。この会話はストーリーが最終段階に入るまで、何度も繰り返される。娘は冷たい顔で「私は好きできたんじゃない」と言い、カウボーイは「おまえの馬だろ、おまえがあの馬を治すんだから、そんな態度じゃこの仕事を引き受けられない」と言う。立ち去るカウボーイの背に娘は「何をすればいいの!」と叫ぶ。
この辺で、この映画の意味が私に見えてきた。巨大で醜悪で凶暴な馬は13歳の少女にとっての、社会というものの暗喩である。13歳はいつだって誰だって、片手か片足をもがれた存在なのである。自由闊達だったあの時代、子どもは仔馬を自由に操っていた。しかしあのパラダイスは既に失われ、今は不自由な身体で獰猛な獣に向かい合わなければならない。何という理不尽、何という不公平、勝手に生んだ親は少しも私の悲しみと恐れを理解しようとしない。それどころか、自分の考えを押し付ける。しかし13歳はこの理不尽と恐怖を乗りこなす責任から逃れてはならない。そのように言ってくれる人を得た13歳は幸せだ。
馬と娘の治療は、暴れ馬がカウボーイに鞍を着けさせるようになり、その馬を義足の娘が乗りこなせるようになるところで終わるのだが、この終わりは、母親とカウボーイとの淡い恋の終わりでもあって、最後のシーンは「マディソン郡の橋」を思い出させる。
困難を極めた「治療の勝利」の直前、ようやく休暇を取ってニューヨークからやってきた少女の父親は、喜びで興奮する娘に迎えられる。娘は父親のことを村のみんなに自慢する。母親を攻撃し嫉妬する娘、母親の近づく気配にさえ嫌悪を示す娘は、父親に無防備に甘える。危機にあった娘に寄り添い、そばから離れようとしなかったのは母親なのに。その父と娘が飛行機でニューヨークへ帰った後、既に失業者となっていた母親はトレーラーに馬を乗せ、車をニューヨークへ向ける。こうしてモンタナの春から短い夏にかけての治療が終わる。
「優しい父」を役割とする男たちはいつだって子どもの父親にはならない。「シェーン! カムバァック!」と言われながら去って行くか、黙ったまま去っていく者を見送るからである。なぜ彼らは家族の一員にならないか? それは彼らが無条件の愛を子に注ぐ母そのものだからである。涙を流しながらホース・ウィスパラーから遠ざかる母親は、もう、かつての彼女ではない。治療者の心を取り入れた母親は、子に対しては「世の掟」へとわが子を導く「優しい父」へと変身しており、それと同時に激しい恋心の再燃に驚く一人の女にもなっている。真の意味で治療されたのは母親だった。
理想の精神科医とは、この映画のホース・ウィスパラーのような存在なのだなと考えさせられた。子どもを取り巻く状況を子どもが対応できる範囲にまで飼い馴らしながら、子どもにそれとの対決をうながす。その作業の過程で、こどもはかつての支配者であった母親を捨て、新しい母(つまり優しい父=治療者)の価値観を取り込む。このとき、治療者は子に捨てられる母親に限りなく優しくなければならない。母親の育て方を裁く神であってはならない。優しいとは、関心を持ち、共感し、彼女の考え方にびっくりすることである。びっくりされた母親は、そのことにびっくりする。彼女はそれが当然と考えてそうしてきたのだから。このびっくりと当惑の繰り返しの中で母親は徐々に変身を遂げる。そのとき治療者の方も変身している。
義足の少女の母親は、孤独なドライブの果てにニューヨークへ戻るのだろうか。