映画が語る自体愛(今月の映画解説)
「さいとうクリニック」は毎月、既に世に出た映画の幾つかを紹介しています。それらはいずれも皆さんの自己理解の足しになるだろうと思われるものです。今月(2018年6月)紹介するのは『ヒステリア』、『セックス&マニー』、『私の恋人はセックス依存症』の3本。いずれも自体愛(性自慰)という微妙な問題をテーマにしています。以下の文章は2015年に出した飜訳「性嗜癖者のパートナー」(誠信書房)の訳者あとがきの一部に使ったものですが、今月の映画の参考になるので紹介します。
乳児の「おしゃぶり」を、「恍惚をともなう吸引」と呼んで手淫(性的自慰、自体愛)と結びつけたのはジグムント・フロイト(1)です。これを踏まえて私(2)は、指しゃぶりを原初の嗜癖と考えました。つまり嗜癖とは、指しゃぶりから始まる一連の性自慰を指します。物質摂取嗜癖者(たとえばアルコール嗜癖者)の場合、薬物の作用下にある自己身体を他者とみなして愛着するという自体愛の存在を仮定しないと、あの「酩酊」への執着を理解しがたいのです。
性嗜癖や性自慰は男性に特有なものではありません。暴力を伴う性的襲撃や一連の性倒錯の加害者のほとんどは男性ですが、性嗜癖そのものの頻度には性差が認められないと私は考えています。頻度の差はないが、表現形には大きな男女差があるというわけです。このように考える理由のひとつは、最近急速に目立つようになった女性自体愛のための道具(「大人の玩具」)の普及です。以下の2つの映画はこのことに触れています。
イギリス映画『ヒステリア』(2011)は1890年代、表面上の性的禁欲主義がはびこっていたビクトリア朝のイギリスで、抑うつ、悲嘆、心身不調を訴える女性が激増するようになり、婦人科治療の道具としていわゆる「電動バイブ」が誕生したエピソードを描いています(映画の冒頭で実話であることが強調されていますが、真偽不明)。舞台こそ120年前の昔だが、現在では日常一般的な生活道具と化しているという主張を前提に女性監督(ターニャ・ウェクスラー)によって作られており、エンドロールでは各時代を代表する世界の名器が実物写真として次々に紹介されています。それらのうち、1970年代を代表する名器として登場するのは、我が日立社のHitachi Magic Wandでした。
アメリカ映画『Friends with Money(邦題『セックス&マニー』2008)では大学時代の仲良し4人組の中で一人だけ落ちぶれてメイドをしているヒロイン(ジェニファー・アニストン)が日に何軒も他人の家を掃除して歩くのだが、どの家の引き出しにも電動バイブがあって、彼女はそれを使うのが習慣です(ポルノではありませんからシーンは音だけ)。それが当たり前のように描かれているところが面白い。これも女性監督(ニコル・ホロフセナー)の作品です。男性と女性の性活動性は等価で、それは性自慰についても同じことという事実を、肩肘張らずにスラっと主張しているような気がします。
これらは決して卑猥な作品ではありません。それどころか、女性の視点から鋭く社会の陰翳を削ぎ取った「女性のための」作品になっている。そこに単なる小道具として無造作に登場する自体愛のための道具は、何を意味するのでしょう ?
今を生きる女たちにとって、上品ぶった男たちに性衝動を押し込められてパニック発作を起こしたり、泣いたり、まして性愛の主体性を男に奪われるなんてあり得ない。そんなものは日用品でどうにでもなる、ということなのではないでしょうか。
つまり、自体愛は今や男の専有物ではなく、話題にしてはならないものではなくなっている。少なくとも一部のリーダー役の女性たちの間では。
性嗜癖の形態が男女によって違うという点で重要なのは、共嗜癖(共依存)を嗜癖的性愛の一型と考えることです。(3)。そう思うことは、「聖なる母」の神域が存在していた時代には禁忌だったのです。
しかし共嗜癖に絡め取られた母親が、精液まみれの15歳や、性的パートナーのいない35歳や、妻との性交渉が絶えて久しい55歳を世話しようとしてまとわりつく気色悪さの正体は、これが生殖器抜きの性愛であるためだと思います。この際、はっきりさせましょう。性器だけは使わないという理由で共嗜癖を性愛から遠ざけるのはむしろ不自然なことです。
このように女性自体愛の普遍化を認め、共嗜癖もまた女性という性別に固有の性愛と認めると、性的嗜癖の頻度にそれほどの性別差はないのではないかという私の疑問も理解してもらえるでしょう。ということで、さて、自分の妻やパートナーが女性同性愛に溺れていたり、手早い自体愛で満足していたり、自分たちの息子を世話焼きと統制で縛り上げることに熱中していたら、夫たちはそれを病的と認識するでしょうか。むしろそうしてもらっていた方が、自分に負担がかからないので有り難いと思っている夫の方がおおいのではないでしょうか。
紹介する映画の3作目は女性の性自慰の問題というより、男性の性自慰禁欲が女性にどう映るかを扱っています。『Thanks for Sharing(邦題『私の恋人はセックス依存症』2012)では、性嗜癖者のためのシェアリング・グループにせっせと通う男(マーク・ラファロ)が描かれています。彼は5年間にわたって禁欲しているというのですが、なんとその禁欲の対象は性的自慰なのです。このハンサムがパーティで長身の金髪美女(グゥイネス・バルトロー)に出会います。この女性は癌で片方の乳房を失い再建術を終えたところ、という設定がいかにも「今」らしい。身も心も整った女性は新しいボーイフレンドを求めていて、禁欲男に接近しすぐに親しくなります。しかし、そこからが大変。
ヒロインは性自慰を含む全セックス禁断中という男を理解できないのです。以前、ドラッグ嗜癖男のことで苦労していたこともあり、セックス嗜癖と聞くとおののいて去ろうとするのだが…、という設定。ここで私はヒロインと一緒に引いてしまいました。シェアリング風景そのものは嗜癖治療に必須で、私にもお馴染みなのですが。
筆者の運営するセックス嗜癖者プラス性倒錯者(主として痴漢と窃視症者たちで、弁護士や司法機関を通じて来院する)のグループ(男性限定)では、性自慰を禁じていません。性自慰を我慢するのは勝手ですが、禁欲を守れないことで生じる罪悪感が倒錯的性行為を促進する方が困るからです。
セクサホーリックス・アノニマス(SA)では、「配偶者とのセックス以外のいかなる性行為も(性的自慰も含めて)しない」ことを「sexually sober(性的に素面)」と呼び、この状態を保つことを仲間たちに勧めています。この方針は日本(SA-Japan)においても変わりません。
それはそれで良いと思います。しかし治療者としての私は、この方針を私の手がける治療ミーティング(シェアリング・グループ)に採用しようとは思いません。配偶者とのセックスだけを他の性行為から区別するという考え方は、極めてキリスト教的な家族聖域論だと感じます。そのような意見を排除はしませんが、彼らのいう「性的シラフ」が、性倒錯や衝動統制不全や性的嗜癖に悩む者たちの治療ゴールになりうるとは思わないのです。私たちは勝手に湧いてくる性衝動や渇望に意識的であってよい。ただし、それを行動に表現して自分自身の社会的評価を下げる必要はありません。偽善者になる必要はない。だから我が内なる性的な欲求という健康な生命力を自覚するだけで自己卑下におちいるのはナンセンスです。内なる生命力は私たちを創造的にします。そしてその変化が他者と繋がるきっかけを作ります。
文献
(1)フロイト,S.『性欲論3編Ⅱ小児の性愛』フロイト著作集5,人文書院, 1968(原著1905).
(2)斎藤学『嗜癖の起源、およびその暴力との関係』「アルコール依存とアディクション」誌、11巻2号,99-108頁,1994
(3)斎藤学 『エロティシズムとアディクション;現代人の恋愛、共依存、親密性』「アディクションと家族」誌, 26巻1号, 27-43頁, 2009